【連載「コンパス」第34回】「子ども捉える統一基準をー教員の「主観」だけに頼るのでなく」
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2024年3月23日付の『信濃毎日新聞』の「教育面」(コンパス)に、第34回目の連載原稿を寄稿しました。
今回のテーマは「気になる/気にならない子ども」です。
「リスクの宝庫」である学校の敷地は「落とし穴」だらけです。
現在、教育相談体制の充実策として「スクリーニング」の実施が注目されていますが、ポイントは、「全て」の子どもを対象としながら、早期に「気になる」事例を「複数メンバー」で洗い出す点にあります。
他方で、学校では、「気になる」子どもを抽出する際、①教員ごとに子どもを捉える「基準」がバラバラ、②そもそも「全て」の子どもが対象とならず、「気になる」レベルの低い子どもが情報共有のテーブルに乗らない、③情報を学校内で共有するだけで満足してしまい、状況改善のためのアクションまでつながらないなど、教員の「主観」に頼ることにより構造的課題があります。
この状況は、結果として、教師の専門性を発揮する余地を自ら狭めてしまうことにもなりますので、「気になる」子ども事案の重大化を防ぐだけでなく、「気にならない」子どもへの感度を磨き続けるために、重い腰を上げてみてはどうかという点をさせていただきました。
関心・興味のある方がいらっしゃいましたら、ご一読ください。
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【連載「コンパス」第34回】「子ども捉える統一基準をー教員の「主観」だけに頼るのでなく」
「リスクの宝庫」である学校の敷地には、「落とし穴」がいっぱいある。
教育相談体制の充実策として「スクリーニング」の実施が衆目を集めているが、そのポイントは、「全て」の子どもを対象としながら、早期に「気になる」事例を「複数メンバー」で洗い出す点にある。
文科省の「スクリーニング活用ガイド」によれば、「気になる」子どもを抽出する際、教員の「主観」に頼る場合が多いという。しかし、そこには構造的課題がある。
第1は、教員ごとに子どもを捉える「基準」がバラバラである。歩んできたキャリアや蓄積してきた知識・経験が異なるため(このこと自体、悪いことではない)、「気になる」の感度が必然的に異なる。従って、同じ子どもをみても、教員ごとに判断も異なり、高リスク該当者が学校のフィルターをすり抜けてしまうことがある。
第2に、そもそも「全て」の子どもが対象とならず、「気になる」レベルの低い子どもが情報共有のテーブルに乗らないことがある。全ての子どもを同一基準で捉える仕組みの未整備は、「気にならなかった」子どもの存在を潜在化させ、学校生活だけでは把握し難い課題(子どもの家庭環境など)の発見は遠のき、活用し得た資源を活用するタイミングを逃してしまう。
第3に、情報を学校内で共有するだけで満足してしまい、状況改善のためのアクションまでつながらない。これでは、本来、組織として対応すべき課題が、個人や家庭の問題として矮小化され、多機関連携は一向に進まない。
説明責任時代において、教員の主観的な判断(このこと自体、否定すべきでない)を「唯一」の根拠として判断を行っていく体制では、学校への不審と不信は深まるばかりである。また学校にも徒労感が蔓延し、教師の専門性を発揮する余地を自ら狭めてしまうことにもなる。
そこで、「気になる」子ども事案の重大化を防ぐだけでなく、「気にならない」子どもへの感度を磨き続けるために、重い腰を上げてみる。例えば、共に子どもを支える学校外の支援者(カウンセラー、ソーシャルワーカー、居場所・フリースクール運営者など)と膝を付き合わせながら、統一的基準に基づく客観的な情報を共に眺めてみることは不可能か。遠回りのように感じられようが、「落とし穴」に落ちるリスクは低減できるはずである。
「担わされる責任」から「担う責任」へ。圧倒的なまでにリソース不足にある学校への伴走を謳う行政の本気度が問われている。
(あらい・えいじろう 信州大教職支援センター准教授)
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