信州大学教職支援センター 荒井英治郎研究室

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【連載「コンパス」第32回】「子どもの五感温める語感─『後味』まで考えた教師の言葉」

【連載「コンパス」第32回】「子どもの五感温める語感─『後味』まで考えた教師の言葉」


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 2024年1月14日付の『信濃毎日新聞』の「教育面」(コンパス)に、第32回目の連載原稿を寄稿しました。
 
 
 今回のテーマは「言葉」です。

 

語感は、五感を温める。

 

自分の教室は、一人の大人の「無自覚の偏見」に支配されていないか。

 

自分の言葉は、子どもの過去や現在を戒め、決めつけ、反省を強いり、未来のあり方をも押しつけていないか。

 

多様な子どもの「未知なる可能性」に光を当て、色彩豊かなシーンに彩られているか。

 

 コミュニケーションとしての言葉は、私たちを救い、私たちを苦しめ、希望と絶望の分かれ道は、紙一重です。

 

 子どもの今に向き合うためにこそ、自分の今に向き合い、内省する。そして、自らの言葉が届けられた子どもの心の「後味」にまで想いを巡らしてみたいものです。

 

関心・興味のある方がいらっしゃいましたら、ご一読ください。


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「子どもの五感温める語感─『後味』まで考えた教師の言葉」

信州大学 荒井英治郎


 「いつも通り、だめねえ」「このぐらいできて、当たり前でしょう」「どうして、最初から説明しないと、分からないの」「みんなに迷惑がかかるぞ」「早く始めて、とにかく頑張りなさい」


 全ての子どもの「教育を受ける権利」を保障しようとした「近代の発明品」である学校。そこでは、自由、平等、平和、公正、正義、寛容など、民主主義を下支えする諸価値を学ぶことができる。しかし、制度の運用を誤まれば、合法的に他者を排除する過程を体感させ、心身ともに大きな傷を負わされる羽目にもなる。諸刃の剣である。


 例えば、暴言や体罰など、教師の不適切な言動が常態化すると、共に育ち学ぼうとする子ども同士の関係もじわりじわりと蝕まれていく。教師が「べき」、「ねばならない」といった呪縛に取り憑かれている空間には、人権の理解も対話の文化も根付かない。しかし、本人は悪気がないどころか、子どもの成長を願い、「よかれと思って」している場合もあり、悲劇である。


 他方で、根拠なき全能感と決別し、さまざまな葛藤に向き合いながら紡ぎ出される教師の言葉は、インクルーシブでフレキシブルな学びの空間を構成する条件ともなり得る。安心・安全な教室では、誰にとっても失敗や挑戦が奨励される場面に溢れており、未来に向けた泥臭い営みが手間暇かけて積み重ねられていく。自分の教室は、一人の大人の「無自覚の偏見」に支配されていないか、多様な子どもの「未知なる可能性」に光を当て、色彩豊かなシーンに彩られているか。


 コミュニケーションとしての言葉は、私たちを救い、私たちを苦しめる。希望と絶望の分かれ道は、紙一重である。しかし大人はこのことに意外なほど無頓着で、子どもとの関係に綻びが見え始めても、いや、学びが成立しなくなった果ての状態でも、ルーティンを繰り返してしまうことがある。しかし、ここまで来ると、もう、言葉は届かない。気付かないのか、気付けないのか。


 子どもの今に向き合うためにこそ、自分の今に向き合い、内省する。そして、自らの言葉が届けられた子どもの心の「後味」にまで想いを巡らしてみる。自分の言葉は、子どもの過去や現在を戒め、決めつけ、反省を強いり、未来のあり方をも押しつけていないか。


 「ふわふわ言葉を使おう!」「思っても口に出さない、ちくちく言葉」。ある小学校の廊下に掲げられたフレーズである。語感は、五感を温める。
(あらい・えいじろう 信州大教職支援センター准教授)

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