信州大学教職支援センター 荒井英治郎研究室

信州大学教職支援センター 荒井英治郎研究室に関するブログです。

研究合宿@沖縄

今週は侍研究会合宿が行われました。

参加者は今回は
Aさん(N大学)
Fさん(O大学)
Gさん(R大学)
Mさん(S大学)
Tさん(C大学)
の6名で、主に検討した文献は下記の通りです。

教育 (自由への問い 5)

教育 (自由への問い 5)



私が担当したのは卯月論文でしたが、
とりあえず要約したものを転載します。

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○基本的スタンス


 本稿は、公共的価値の一つである教育機会の平等を実現する「制度設計」に関して論じたものである。筆者は「義務教育の公共性を、準市場やその他の制度モデルの理論的または現実的な可能性に依存させるのではなく、公共性から、それぞれの制度モデルの手段としての可能性を検討するのが筋道である」とし、「誰かの自由が、義務教育にとって促進されるはずのその自由が、損なわれていないかどうか常に配慮するために義務教育は公共性に基づくべきであるとしている(47頁)。冒頭、筆者は、「いつどこに生きる誰かによって、その状態から回復するために具体的に何を必要とするのかが異なるという事実」(23頁)、さらには価値を構想すること自体が困難で人間らしい生が損なわれている状態の存在を真摯に受け止めた上で、個人が自由に生きる前提条件にまで議論の射程を広げる必要性を喚起している。すなわち、種々の価値(善き生の探求)を構想するといっても、その価値がいかなる状態で構想されたものであるのか、換言すれば、基本的ニーズ(基本的な資源を超えて、資源の結果への変換可能性をも考慮に入れた潜在能力:30頁)が充足された状態でその価値(善き生)は構想されたものであるか否かを教育の機会が保障されている状態とみなすという基本的観点を提示するわけである。そして基本的ニーズが充足された状態を保障することは公共の課題として設定されることになり、そこに(その生の探求の善し悪しについては一切関与しない形での)国家関与が正当化されることになる(24頁)。




○国家関与のあり方


 本稿は上記の文脈において国家関与の在り様をめぐる議論を公共性に引きつけながら展開しており、そこでは公共性を「すべての個人に自由が実現することを優先し、これを妨げるような個人の自由を制限することを正当化する考え方」と定義している(24頁)。こうした公共性ないし国家関与の在り方に対する代表的批判として本稿で紹介されているのが、「リバタリアン」(自由至上主義)と「コミュニタリアン」(共同体論)によるそれである。
前者は、自由に対する限定的な制限をも過剰な制限だとして批判する立場であるが、これに対して筆者は、資源の初期配分に分散がある中で個人の所有権を不可侵のものとみなしながらすべての個人の自由を実現できると考えるのは非現実的であるとして棄却している。
 後者は、共同体の共通善を構想し、その共通善を担うことのできる人格の形成を追求し、個人主義に依拠すること自体を批判する立場であるが、これに対して筆者は、「共同体論が依拠する共通善やそれを担う人格は、個人が完全に放任されたときに発生しうる混乱状態を回避または軽減するのに役立ち、その意味で共同体の価値を支持する人の自由を守るかもしれない」が、共同体の価値を支持しない人を排除する可能性があるとして棄却している。そして、「共同体から排除された人を包摂する公共性の場を成立させることなしに、すべての個人の自由を実現するのは不可能だろう」との問題提起を行っている。



○義務教育の目的


 続いて、自由のための公共性という観点から義務教育の目的について論じている。筆者によれば、義務教育の目標と実践を評価する基準として重要なのは、そこで公権力あるいは多数派の価値によって個人の自由が抑圧されることなく、すべての個人の自由が促進されているかどうかであるという。ここには、「義務教育が実質的には特定の善き生を標準化・理想化する影響力をもっている」という課題認識が前提にあり、「義務教育を行う公立学校を公共性の場とするには、あらゆる善き生から独立な場として完成させることの難しさを認めながら、異議申し立てに対して開かれた場として設計することが重要になっている」と指摘している(26-7頁)。その後、筆者は公共性の実現のための手段として機会の平等を位置付けた上で、どの機会の平等理論が公共性(すべての個人の自由の実現)にとってより有効かという観点から検討を行っている(27頁以降)。
 ここで注目すべき点は、筆者が、義務教育における平等論を時系列的な観点(結果の平等が機会の平等へと変換される、あるいは機会の平等と結果の平等との同義性)からとらえていることであり(29頁)、「義務教育を受ける機会を平等化することが目指される一方で、義務教育の結果がその後の人生の機会を形作るので、その後の人生にとっての機会を平等化しようとすれば、義務教育の結果を平等化することが目指される。このことは、義務教育の機会をどのように平等化すべきかを考えるとき、義務教育の結果をより効果的に平等化する理論に依拠するのが適切であることを示唆」している。この論理(機会を考察する際に結果を無視できないという観点)を支えているのは、「機会は結果に比べて観察不可能なことが多いため、選択しなかった機会が自分にとって開かれていたのかどうか、わからないことが多い」ためである。



○機会の平等論の類型化
 
 
 上記観点を前提としながら、筆者は、いかなる要因によって生じる結果の不平等を正当化できるかという観点から機会の平等を分類したタニア・バーカードの議論を参照している。タニア・バーカードの議論を参照する理由は、機会の平等化を促進する制度と政策は、結果の不平等があくまで正当化できる要因によって生じるよう設計されること、あるいは正当化できない要因によって生じる結果の不平等を埋め合わせるよう設計されることが求められるためである。以下概観しよう。
 第1は、「形式的な機会の平等」である。これは、抽選結果のような確率によって決まる結果の不平等を肯定する立場であり、この立場によれば、全ての人に全く同じ性質の機会を同じ量だけ配分する方法も是認されることになる。筆者は従来の義務教育制度においてはこの立場が支配してきたと概括している。これに対して、筆者は、「形式的な機会の平等」では個人の多様性が大きいとき結果の不平等も大きくなることになると指摘している。
 第2は、「業績主義(メリトクラシー)」である。これは、(才能と努力の結果とされる)業績によって生じる結果の不平等を正当化する立場である。これに対して、筆者は、業績自体も資源に影響されることに注意を払っていない点を批判し、基本的ニーズの充足がそのような業績に基づいてよいのかと疑義を呈している。そして、結果というものは、業績だけではなく業績とは無関係に所有している資源、そして資源を結果へと変換でき得るかといった能力(潜在能力)にも左右されることを指摘している。また、慎重な配慮に基づかず入念な設計を怠った状態で学校選択制を導入することは、親の資源に恵まれた学力の高い子どもに公共の資源がより多く行き渡る可能性が高くなり、業績主義に陥りやすくなること、そして業績主義を採用した場合は、「形式的な機会の平等」を採用したとき以上に、結果の不平等が大きくなることを指摘している。
 第3は、「責任平等主義」である。これは、人間の先天的差異を除去することまでは想定していないが、所有する資源の違いに注目しながら自分の責任では用意できない資源の再配分を重視し、必要に応じて結果の不平等を社会政策等を通じて事後的に埋め合わせることを要請する立場である。そこでは、親に与えられた資源が業績を媒介せず結果に影響を与えること、また自分の責任の範囲を超えた資源(才能を含む)が不平等に分布している状態において業績の結果によって取り分が決まることも機会の平等に反することと考える。これに対して、筆者は一定の理解を示しながらも、資源の不平等も埋め合わせたとしても、その資源を結果へと変換できるかどうかは個人の個性や置かれている環境によって異なる点を責任平等主義は見落としていると批判している。
 第4は、「潜在能力アプローチ」である。まず潜在能力アプローチは、「同じ教育を受けても、そしてそれがどれほど素晴らしい教育であっても、それを知識、思考、学力へと変換できるかどうかは、子どもの個性によって、また子どもの置かれる環境にとって異なる」と解し(43頁)、「個別性に応じた支援が受けられることの重要性を指摘する」(47頁)ものである。ここでの潜在能力とは、個人が望めば選びうる選択肢の束のことを示している。この立場は、資源を結果へと変換できるかどうかの可能性の差異に注目し、この資源の結果への変換可能性についても自分の責任には還元できない結果の不平等が存在することを指摘しながら、選択肢を用意するためには、資源の不平等に加えて、資源の結果への変換可能性の不平等も補正する必要性を喚起することになる。そして資源の結果への変換可能性の不平等が是正されたことをもってはじめて機会は平等とみなされ、その結果、善き生の多様性によって個々の人々が実際に何をし、何であるかが多様になることは正当化されることになる。
 「責任平等主義」と「潜在能力アプローチ」の相違点は個人の責任の問い方に求められ(32頁)、前者が是正すべき不平等として資源を設定するのに対して、後者は是正すべき不平等として資源の結果への変換可能性を設定することになり、後者のほうが選択肢の有無に留まらずその選択肢の質をめぐって政府に対して厳しい基準を要請することになるという。




○教育供給の制度モデル
 
 その後、筆者は、準市場を責任平等主義に基づきながら活用した場合においても種々の問題が残り得るとして、潜在能力アプローチが提起する課題の検討を行っている。ここでの準市場とは「学校選択制と学校間競争によって教育サービスの向上を目指す試み」(33頁)のことを示しているが、筆者はジュリアン・ルグランによる教育供給の制度モデルを紹介している。以下概観しよう。
 第1は、「信頼モデル」である。これは、政府が各学校への予算配分の決定だけに関与し、その予算をどのように使うかは、専門家である教師に任せる仕組みである。このモデルの教師は、自己的利益よりも利他的利益(子どもや社会の利益)を優先し予算を効率的に使うことができるアクターとして設定されている。またここでは同アクターは質の良い教育を提供するはずだという信頼を得ていることが前提条件となっていることも注目しておくべき点である。これに対して、筆者は、すべての教師が完全な利他主義者であるとは限らないこと、また利他主義者であることと予算を効率的に使うこととは同義ではないこと、教師・政府・子ども・親などの教育要求は多様であり必ずしも一致し得ないことを指摘している。
 第2は、「管理統制モデル」である。これは、政府が提供すべき教育の質・量を決定するとともに結果も管理し、教師は政府の設定した目標に向かって努力するよう促されると想定するものである。これに対して、筆者は、短期的スパンにおいては数値目標の達成度合いは高まるかもしれないが、本質的に重要な知識や思考を身につけるための教育が滞る可能性が高いこと、評価のために必要以上の時間と手間を費やすことは本質的な教育の妨げになること、教育の成果は学校と教師の努力以外にも様々な要因に規定されているにもかかわらず、その結果に対して学校と教師にペナルティが課されるのは不適切であると指摘している。
 第3は、「発言モデル」である。これは、親が学校と教師に向けて意見を表明することにより、学校教育に影響を及ぼすことができるというものである。これに対して、筆者は、すべての子どものニーズを平等に把握するのは難しいとともに、発言力の強い親は学歴や社会経済的地位が高い傾向にあるという「事実」に鑑みれば、他の子どものニーズが顧みられない可能性が浮上し、義務教育の機会はかえって不平等化するのではないかと指摘している。
 第4は、「準市場(選択と競争)モデル」である。これは、すべての親子が学校を選択できるようにし、より幅広いニーズに応じた学校教育の運営を可能にすると想定するものである。これについては後述する。
 ここでそれぞれのモデルの特徴を再度概括すれば、「信頼モデル」および「管理統制モデル」では必ずしも学校教育は親の意見と子どものニーズに応答することを保障することがモデルに組み込まれていないこと、「準市場モデル」のみが教育サービスを向上させる競争インセンティブを組み込んでいることが指摘されている。




○準市場の制度設計のポイント

 筆者が準市場の制度設計のポイントとして提示しているのは、教育サービス向上を目的とした適正な学校間競争を成立させること、そしてその条件を整備することである。そこで条件整備の方向性として、「学校の自律性」と「情報公開」が挙げられている。
 第1の「学校の自律性」については、学校が予算の使途、教師の採用、子どもの選抜などにおいて十分な自律性を認めることが重要となるが、子どもの選抜については、「いいとこ取り(クリーム・スキミング)」の問題が指摘されており、有利な子どもと不利な子どもの間の不平等を拡大しかねないばかりか、教育サービス向上という目的にとっても回避する必要があるとされ、学校に学校が不利な境遇にある子どもを入学させた場合に、パーヘッドで割増予算を配分する仕組みを導入することで不利な境遇にある子どもを学校に入学させるインセンティブを与えるという案が提示されている。しかしながら、これについては、すでに市場での地位を確立した学校はそのようなインセンティブには動かされないこと(未完のイコール・フッティング:競争条件の同一化の問題)、不利な子どもの教育達成のためには教師の高い内発的かつ利他的な動機が必要とされるにもかかわらず金銭的インセンティブの導入はそうした動機を駆逐してしまう可能性があること、不利な子どもが集まることで多くの予算が割り与えられたとしても、教育困難な状況に変化が生じない可能性があり得ることが指摘されている。最後の点については、学校間で入学者の属性に偏りが出ないようにするほうが、どの学校でも教師は教育サービスを向上させやすく、子どもの教育達成にとって効果的かつ効率的かもしれないという知見を意識しての指摘である。
 第2の「情報公開」については、各学校の教育サービスが向上しているかどうかを的確に示す情報がわかりやすく公開される必要があると述べている。そこでは公開されるべき情報とは何かが問われ、学校選択にとって本来必要なのは、過去の入学者についての実績ではなくこれから入学する子どもにとって教育効果があるかどうかでありそれは将来への予測を含めた情報であることから、学力テストの結果は学校選択のための有益な情報になりえないこと、教育効果が高いだろうと予測できる学校は存在しない可能性のほうが高いことが指摘されている。
 さらに、筆者は学校選択制の導入に際する論点として、①個々の親子の実質的な選択肢のなかに、望ましい学校が確実に含まれるかどうか、②親子が学校選択時にしか効力のある発言の機会を与えられないとすれば、時間と共に変化し分散する子どものニーズに、学校と教師は必ずしも対応できなくなる可能性があるのであり、特別なニーズをもつ一部の子どもへの対応が不十分にならないかどうか、③準市場によって親の資源による機会の不平等が是正されたとしても、それだけが義務教育において取り組むべき機会の不平等であるかのように想像力を限定しないことを指摘しており(43頁)、上記問題は実際にどれだけ深刻なのか、準市場の設計次第で解決可能なのか、準市場の負の影響によるものなのかと問うている。

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私が提起した論点を簡単にピックアップすれば、

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○本論文で得られた「新たな」知見は何か

○公共性とは、何か

○義務教育段階前後(就学前教育、後期中等教育、高等教育、生涯学習)における教育の機会均等

○分配の正義の下位概念(機会の平等、結果の平等)と、公共性と自由の関係

○分権改革下における自治体教育政策と合意の調達方法

○教育における準市場のヴァリエーション

○公権力ないし多数派価値による抑圧に対する制度構想


○義務教育における「結果」の平等論

○制度モデルの具体化イメージの確認

○学校選択後の教育の機会均等問題

○アクターとしての学校・教師の選好

○教育サービスの向上とは何か

 
○制度モデルにおけるコスト問題

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といった感じです。


今回は一つの文献を分担したこともあってじっくりと読むことができ、
「教育の自由」をめぐる問題状況とその理論水準の把握と、
それに応じた教育研究のあり方について議論をすることができました。


参加した皆様本当にお疲れ様でした。
次回の研究会を今から楽しみにしております。



【本日の一手】

よいこの君主論 (ちくま文庫)

よいこの君主論 (ちくま文庫)

民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)

民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)


移動中に読了したものです。


その他同著者によるもので書棚にあるものをピックアップ。

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

格差社会という不幸(神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドVII)

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システムの社会理論―宮台真司初期思考集成

システムの社会理論―宮台真司初期思考集成

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)