昨日は、長野市にある工学部で今年最後の授業。
今回は、特別ゲストとして、後輩のTさんにお越しいただいて、
20分程度、お話をしていただきました。
データを駆使した説明をしてくださったおかげで、
学生からは大変好評でした。またの機会があればぜひと思っています。
どうもありがとうございました。
長野市は松本市にくらべて雪がすごかったのだなーと他人事のように思っていましたが、今朝目覚めると、水道管が凍り、水が出ず。
管理会社に電話をしてなんとか復旧しました。
今回は原因不明ですが、たまにそういうイレギュラーなことがあるそうです。
さて、本日は部の会議や教授会もありますが、
時間の有効活用をせねばと思っています。
【本日の一手】
①子安潤「個人能力達成モデルから課題探求モデルへ―学力に囚われない授業」
②佐貫浩「知識の意味の喪失とその回復のすじ道―授業は子どもの学習要求に応えているか―」
③冨士原紀絵「『行って意味ある学力調査』の要件を考える」
④本田伊克「海外の学力テスト経験から学ぶべきこと―学力テストの社会学的国際比較」
⑤中嶋哲彦「不参加から参加へ―犬山市で起きたこと、起きなかったこと」
⑥内原圭一「全国学力テストと教育の単純化」
⑦佐藤修司「学力日本一が意味するもの―秋田県の経験から」
松本→長野への移動中に読了した『教育』第768号のうちのいくつか。
以下それぞれで印象に残った記述。
①
知識が黒板にへばりつく授業(黒板に張り付いた記号は、生徒のノートに転写されたが、生徒には届かない)の特質
(1)黒板にへばりつく知識は、受験やテストにおいて出題される確率のかんてんから選択される。受験に出題される知識である確率が高まると、その知識の社会的意義どころか学習指導要領上の位置さえ無視された教えるべき内容となる。その知識は、絶対的真理であるかのように黒板とノートやシートに配置されていく。
(2)授業における教師の活動は概説であり、テストで正解を記述できるという観点から組織される。具体的事象と知識を結びつけるなど、「わかる」ことについて不可欠な観点はない。グラフや写真が使われることがあるが、その理由は、それが出題されるからである。「わかる」ことを目的に教材や授業が構成されるのではなくて、ポイントをつかんだ解答が記述「できる」という観点、それが授業を支配している。
(3)子どもの学習活動は、正解たる知識の効率的な記憶が中心となり、板書ノートに移すことと反復ドリルが重要な位置を占める。思考はあたかも暗記のためにあるかのような状況にある。
(4)教師の言葉として「テストに出るので覚えて置くように」という脅迫のセリフが、親切のすべてである。
→結果として子どもの側には、授業とは暗記だという信念、記憶した知識量の多寡で他人と自分の優劣を判断する信念、受験のためには苦役も仕方がないという諦念、勉強への断絶と不信感を培養する。
⑤と⑦は、教育行政学者としての研究と実践との関係や「当事者性」のあり方を考えさせられる論考でした。