【連載「コンパス」第31回】「「学校化社会」の反教育論・脱学校論─「子どものため」鋭く問う」
--------------------------------------
2023年11月25日付の『信濃毎日新聞』の「教育面」(コンパス)に、第31回目の連載原稿を寄稿しました。
今回のテーマは「反教育論・脱学校論」の糾弾です。
「しつけは、家庭で。教育は、学校で。いや、しつけも教育も、学校で。」
学校的なる価値観(学校知)が社会全体に浸透する「学校化社会」で前提とされがちなこの論理。それを根本から問い直す論に反教育論・脱学校論があります。家庭のしつけや学校教育の存在を真正面から批判するこれらの主張は、誰に、何を、どのような意味で、訴えかけているのでしょうか。
①個人生活や社会活動に学校知が侵食する「社会の学校化」
②社会で役立つとされる資質・能力(社会知)を早期に学校で育成させることを企てる「学校の社会化」
両者は時に反発し合い、時に共犯関係にもなります。反教育論や脱学校論は、そうした私たちの足元に鋭くメスを入れ、投げかける。本当に、子どものためになっているのかと、と。
これまでの「当たり前」を問い直し、新しい「当たり前」を創造していくことが求められているウィズコロナ時代。私たちはこうした考え方にも無関心ではいられません。
関心・興味のある方がいらっしゃいましたら、ご一読ください。
--------------------------------------
「学校化社会」の反教育論・脱学校論─「子どものため」鋭く問う
「しつけは、家庭で。教育は、学校で。いや、しつけも教育も、学校で。」
学校的なる価値観(学校知)が社会全体に浸透する「学校化社会」で前提とされがちなこの論理。それを根本から問い直す論がある。
オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイトを代表とする精神分析理論を批判したスイスの心理学者アリス・ミラーは、その著『魂の殺人』の中で、親のしつけや教育は権力行為であり、その行為は、自然発生的な子どもの感情を押し殺すことを強制するにとどまらず、子どもの人間性をも破壊するものであると糾弾した。いわゆる「反教育論」である。
また、イギリスで公立学校教員を25 年勤めたクリス・シュートは、『義務教育という病』という本で、子どもの精神・社会的発達にとって義務教育がいかに有害かを、次のようなフレーズを使って表現している。以下は、その概略である。
「学校という所は、憂鬱な場所であるばかりか、すぐにでも出たいけれども出られない、まるで一日中監獄にいるような絶望的な所ではないだろうか(中略)学校は、子どもたちがどう感じるのかということが全く配慮されない空間であり(中略)生徒による反論が許されない異空間なのです。」
家庭のしつけや学校教育の存在を真正面から批判するこれらの主張は、誰に、何を、どのような意味で、訴えかけているだろうか。外国の「フィクション」ないし「パロディ」ではないかと、一蹴できるだろうか。
ここでもう一人の論者に登場してもらおう。オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチである。彼は、近代教育制度が定着すると、学校という圧倒的権威の存在によって本来の「学習的価値」は奪われ、子どもは学校的なる「制度化された価値」を一方的に受容するようになると指摘した。そして、平等化装置としての学校の機能を否定し、「脱学校論」を展開したのである。
個人生活や社会活動に学校知が侵食する「社会の学校化」と、社会で役立つとされる資質・能力(社会知)を早期に学校で育成させることを企てる「学校の社会化」。両者は時に反発し合い、時に共犯関係にもなる。反教育論や脱学校論は、そうした私たちの足元に鋭くメスを入れ、投げかける。本当に、子どものためになっているのかと、と。
これまでの「当たり前」を問い直し、新しい「当たり前」を創造していくことが求められているウィズコロナ時代。私たちはこうした考え方にも無関心ではいられない。
-------------------------------------