【書評】荒井英治郎「鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育』」『月刊高校教育』2016年12月号,学事出版,94頁。
『月刊高校教育』の2016年12月号に、『崩壊するアメリカの公教育』の書評を書かせていただきました。
公共政策学では、新たな政策課題に直面した時に、政策決定者は他国の政策決定者の意思決定の根拠や、その政策内容に関する情報を収集し、意思決定の判断材料を揃えることが、将来的な政策革新(policy innovation)の前提となるという考え方があります。他方で、他事例の経験は当該政策の効果に関する予測可能性を高めることになるため、政策決定者はその予測に基づいて政策案の修正や不採用を決定することもあり得えます。この意味で、他事例の経験は、先行して採用されているという意味で「先進」的な事例ではあるが、そこから学ぶべきことは「失敗教訓」であることも少なくありません。
では、諸外国の教育政策、とりわけ今次の大統領選の話題で持ちきりの「自由と平等」の国、アメリカの状況はどうでしょうか。多くの方の関心事かと思います。
本書では、80年代以降、アメリカが意図的に採用した新自由主義に基づく市場型教育改革の代表例として、テストの点数に基づく画一的評価の下で行われる学校選択制、バウチャー制度、チャータースクール制度、ゼロ・トレランス政策、アカウンタビリティ政策等が挙げられています。
そして、公教育の民営化を軸に小さな政府が主導した「社会実験」は、本来、出自や身分の別なく教育の機会均等を保障することを重視する公教育の場を、全ての学校が生存競争への参加を迫られ排他的に生徒を奪い合う一兆円規模の教育ビジネス市場へと変貌させ、人間の教育を簡素化・抽象化・数値化・標準化・商品化し、経済格差を再生産する社会装置としての側面が顕著であると指摘されています。
また、発展途上国からの「教員輸入」(ティーチャー・トラッフィキング)が行われる状況下の教師像は「使い捨て労働者」と化し、教職の超合理化と非・脱専門職化へ邁進しているようです。
さらに、「データ主導型教育改革」は、一部の「納税者」や「教育消費者」にはある程度のチョイス(選択肢)を与えたものの(とはいえ、それは単なる「チャンス」(運)であり、現実にはそれも平等に保障されていないという)、学校は教員の「温もり」が感じられない空間となり、「公教育」や「民主主義」という社会の鍵概念それ自体が危機に瀕しているとの警鐘が鳴らされています。
そして、筆者は、断言しています。
そこにあるのは、
民主主義(デモクラシー)ではなく、
企業の企業による企業のための国家統治(コーポラトクラシー)であると。
教育政策においてもグローバル市場が形成されて久しいですが、グローバリゼーションの荒波を前に、共通する政策課題に対する解決策を唯一無二と考える認識枠組みこそ問われるべきであると言えます。
他国の経験からの教訓を糧に、現在地の把握に努めるだけでなく、目的地それ自体を再考すること。
このことはPISAのフロントランナーに位置づく日本だからこそなし得ることであり、そこで下される英断と新たな教育ビジョンの提言は、オルタナティブな「スタンダード」を構築し、将来的には世界的規模での政策波及(policy diffusion)に寄与することにもなる可能性もあるはずです。
「改革幻想」に浸る前に、まずもって本書の「警告」に耳を傾ける必要があると思います。ぜひご一読ください。