【連載「コンパス」第51回】「挑戦をやめてしまう「学習性無力感」─「自分で選ぶ
手触り大事」
「どうせ無理」という学習性無力感は、いつ、どこで育まれるのか。
------------------------------
2026年4月6日付の『信濃毎日新聞』の「教育面」(コンパス)に、第51回目の連載原稿を寄稿しました。
今回のテーマは、「学習性無力感」(Learned Helplessness)です。
米国の心理学者セリグマンが提唱した、努力が無駄だと学習することで意欲を失う「学習性無力感」。
学校や社会が結果や数値のみを重視しすぎることが、子どもたちから「自分には価値がある」という感覚を奪い、無力感を植え付けている可能性があります。
この課題を克服するためには、過程や小さな変化を言葉にすることや、本人が自ら選択する機会を増やすことが不可欠です。
また、この問題は子どもに限った話ではなく、多忙な業務に疲弊する大人たちの社会にも共通して蔓延しているのが現実です。
学びの本質を問い直すことで、私たちは「どうせ無理」という諦めを生む社会全体の仕組みに向き合う必要があります。
関心・興味のある方がいらっしゃいましたら、ご一読いただき、ご感想・ご意見をお寄せください。
----------------------------
【連載「コンパス」第51回】「どうせ無理」という学習性無力感―いつ、どこで育まれるのか。
「どうせ無理」「やっても変わらない」と、現実と向き合うことをやめる。そして気づけば、その存在は、そこにもういない。
私たち大人は、自身の日々の振る舞いを棚に上げ、「意欲が足りない」「努力が続かない」と子どもを即断する。また自分の眼差しのズレに無自覚なまま、「こういうものだ」と安易にラベルを貼る。しかし、その背後にある心理に向き合わなければ、その真理には近づけない。
米国の心理学者マーティン・セリグマンらは、努力しても結果が変わらない経験を繰り返すことで、人は「行動しても無駄」と学習し、挑戦そのものをやめてしまう状態に陥ると指摘した。これが「学習性無力感」(Learned Helplessness)である。無力感を「能力不足」ではなく、「行動と結果の結びつきがないと学習した結果」として説明される。学習性無力感は、関係性の中で生まれ、関係性の中で変化していく。
学校は、知識だけでなく、態度や価値観も学ぶ(学ばされる)場である。しかし、点数が取れたか、何回できたか、声が出ていたか、聞いていたか、手を挙げていたか、提出物を出せたかといった「結果」に焦点が当てられがちである。いずれも教育活動の成果を測る一つの指標であり、把握しやすい。しかし、「結果が出ない」「努力しても変わらない」という経験が積み重なり、他者から「そのような存在」として刻印されるとき、子どもは知らず知らずのうちに無力感を学習していく。
では、私たちに何ができるのか。
第一に、結果だけでなく過程も丁寧に言語化すること。「できる・できない」という二分法にとどまらず、「どこまで進んだのか」「どのような工夫をしているのか」「どこに課題を感じているのか」といった小さな変化に目を向け、心を配り、寄り添い、向き合い、伴走する。
第二に、選択の機会を過程にちりばめること。一方的に与えられた課題に包囲される状況では、「やらされている」という感覚が蓄積し、主体性は損なわれる。自分で選び、決めているという手触り感は、無力感の対極にある。
もっとも、無力感は子どもだけの問題ではない。大人もまた、過重な業務や報われにくさの中で、「どうせ変わらない」という現実に途方に暮れている。学習性無力感は、大人社会においても無縁ではないのである。
学びとは、本来、「自分の行動や存在には意味がある」と実感する経験を積み重ねていく営みのはずである。であるとすれば、「どうせ無理」は、いつ、どこで育まれているのか。それが学校を含む大人社会であるとするならば、私たちは皆、当事者、いや、共犯者である。
(あらい・えいじろう 信州大教育基盤構築センター准教授)
