【連載「コンパス」第43回】「『予言の自己成就』を描く─ユートピアかディストピアか」
既視感ある学びの「風景」を塗り替えるのは、誰か。
残念ながら、この問い自体が誤りである。
求められるのは、「誰か」ではなく「誰と」という視座である。
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2025年3月15日付の『信濃毎日新聞』の「教育面」(コンパス)に、第43回目の連載原稿を寄稿しました。
今回のテーマは「予言の自己成就」です。
関心・興味のある方がいらっしゃいましたら、ご一読ください。
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「『予言の自己成就』を描く─ユートピアかディストピアか」
いまだ実現していない理想の社会を描く「ユートピア」と、実現し得る最悪の社会を描く「ディストピア」。実はこの2つの物語には、現実社会を批判するという共通点がある。
筆者が座長を務めている信州学び円卓会議は、子どもたちにとって最適な学びのあり方を模索し、子どもから大人まで多様な関係者・当事者と対話を重ねてきた。そこで出合ったのは「学校は安心・安全で、ありのままの自分を受け止めてもらえ、好きをとことん突き詰められる場所であってほしい」という子どもたちの声と、「学びの支援者として、一人ひとりの子どもを起点としながら、遊ぶように、楽しく共に学び合いたい」という教師の声であった。
同じ年齢の子どもが同じ教室で同じ内容を同じペースで学ぶとイメージされることの多い日本の学校。「平等」を保障してきた近代の発明品は、画一的で「時代遅れの欠陥品」であると批判されることも多くなった。ここで確認すべきは、実態はどうであれ、この「イメージ」が制度と同一視されるほど強い粘着性を持っている点である。
この「イメージ」を塗り替えるには、相当の勇気と覚悟と時間が必要となる。なぜなら私たちの多くが全国一律の画一的な制度を批判しつつも、制度改革もまた全国一律に行われるべきだという強迫観念に囚われているためである。
例えば、既視感ある学びの「風景」を塗り替えるのは、誰か。残念ながら、この問い自体が誤りである。求められるのは、「誰か」ではなく「誰と」という視座である。
これまでの「当たり前」を問い直し、新しい「当たり前」を創っていく営みには、前例のないチャレンジに取り組む実践者の「勇気」が不可欠であり、また持続可能性を担保すべく、私たちには「信頼」という薪を焚べ、その灯火が消えぬよう、支えていくことが求められている。「子どもの問いや発見を学びの中心に据える」→「子どもの姿から教師が学ぶ」→「子どもと共に教師も成長する」というサイクルは、実践者が力強くペダルを漕ぐだけでは回らないのである。
教育という営みは、「未完のプロジェクト」である。他方で、私たちは新たな課題に対して「できない理由」を探すことがどんどん得意になっている。また、私たちは完全な制度など存在しないとわかっていながらも、新たな試みに最初から完璧さを求めてしまう。しかし、教育や社会は「誰か」が変えてくれるものでは決してない。「誰か」が変えてくれた教育や社会に、私たちは当事者意識を持ち、より良いものにしていこうとするだろうか。否である。
米国の社会学者ロバート・K・マートンは、根拠のないうわさや思い込みでも、人々がそれを事実だと信じて行動することで、結果的にそれが現実化する現象を「予言の自己成就」と表現した。
では、未来の物語として「ユートピア」と「ディストピア」のどちらを描こうか。そして、その物語の登場人物として「自分」をどのように描こうか。「あなた」が登場しないのでは、困る。今を生きる「あなた」は、未来の当事者でもあるのだから。
学びとは希望であり、学ぶとは他者と共に未来を紡ぐ手応えを得ていくことでもある。そのことを忘れてはならない。
(あらい・えいじろう 信州大教職支援センター准教授)